不孝の上塗り -ゴミ屋敷と暴力- 2

天童荒太の「静人日記」にゴミ屋敷で孤独死した老女が登場する。

人々の記憶に残っている時点ですでに、彼女は独り暮らしで、親の遺産でもあったのか、仕事もせずに家にこもり、やがてゴミを溜めはじめた。近所付き合いはせず、ゴミの苦情にも耳を貸さない。こちらが善意で片づけようとすると、汚物のようなものを投げつけてくる。迷惑は毎日感じていたが、感謝する者は一人もいなかったとのことだった。

とは自治会長の言葉で悼みの描写こそなかったが、静人に悼まれたであろう老女はまだ幸せだったと思う。
ただ、近所のゴミ屋敷が迷惑だから自治会が善意で片づけようとする辺りは、苦笑いを浮かべずには読めなかったがね。


さてと。私が母に暴力で迫った理由はシンプルだ。会話が成立しない。この一点に尽きる。
片付けをする、ゴミを捨てる、同居する、それ以前の話だ。

論理的な話の組立が理解出来ないのだ。町内のゴミ屋敷の老女ならいいだろう。諦めて関わらなければいい話だ。孤独死しようが知ったことではない。自治会としてやるべきことはやったと自分を説得できるだろう。
だが、コトは自分の母親だ。世間体はもちろん、このままに出来ない責任もある。

とはいえ、何も暴力の言い訳にはならない。日本語が母親に通じないと頭に血が上った私は、母親を突き飛ばしゴミの上に転がした。

このときから、家族に手を上げることがタブーではなくなった。後悔してもしきれない。暴力は連鎖する。